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【モヤモヤ】高い発達段階を学ぶ人たちに違和感を覚えるのはなぜか?

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「大人の発達」や「内面の成長」というテーマに惹かれて、STAGESモデルの「4.0〜4.5の発達段階」を学ぶ勉強会に参加しました。多次元的・多視点的な理解を深める貴重な時間となりました。

しかし、終わった直後に心に浮かんだのは、**“この学びは本当に日常の関係や対話に活かせるのか?”**という違和感でした。それは単に理論的な知識の習得にとどまらず、「この学びが自分の現在の生き方や人間関係とどう結びついているのか?」という根源的な問いに向き合う時間でもありました。

🔍 勉強会で得た4つの気づき

1. どの段階にも「シャドウ(影)」がある

・発達が進んでも、悲しみや癒しを求める感情は人間の本質として残り続ける
・4.0や4.5の段階では「統合」自体が抽象的な概念になり、明快な答えが出しにくい
・多視点的になりすぎて、自分の足元を見失いやすくなる

成長によって“無敵になる”のではなく、むしろ人間らしさにより深く向き合うことになるのかもしれません。内面を掘るほどに、癒しきれない痛みや未解決の問いと向き合うことも増えていきます。

2. 「高い段階」にいるはずの人の言動に違和感

・他者に対して苛立ちを見せたり、コントロールしようとする言動があった
・「私は発達段階が高い」と語る人たちに、どこか自分のアイデンティティを守るための表現が見えた
・フレームで相手を見ることに集中し、“今この瞬間に生きる人間そのもの”への感受性が弱まっている印象を受けた

「癒し」「統合」「スピリチュアル」といった言葉が、時には個人的な欲求や承認欲求を覆い隠すための言葉に見えることもあります。学びの言葉が、自己防衛や他者をコントロールする道具になってしまっている現実を感じました。

3. 発達論を学べる人の「社会的背景」

・時間や金銭的余裕がなければ、こうした勉強会に参加する発想自体が持ちにくい
・現実に直面している人々は「今を生き抜く戦略」で精一杯である
・発達段階の探究は、“余白”のある生活環境の中で初めて生まれる問いであり、経済的・社会的背景が大きく関与している

発達を語るには、“生活のステージ”との接続が欠かせません。どれだけ高い視座を得ても、地に足のついた問いとつながっていなければ、その学びは空回りしてしまうかもしれません。

4. この学びは「自己満足」かもしれない

・フレームや理論をいくら学んでも、“ありのままの人間”を見ようとする感性が伴わなければ意味をなさない
・違和感は他者への批判ではなく、自分自身の姿勢への問いかけでもある
・同時に、自分の中にも静かに起こった気づきがあった。その違和感こそが、より深い内省と学びの入口になっている気がする

理論に没入するあまり、現実の中での関係性をどう築くかを見失う危うさを感じました。フレームは「見る力」を与えてくれる一方で、「感じる力」を鈍らせてしまうこともあるのです。

🤔 読者のあなたへ問いかけたいこと

・あなたは「学んでいる自分」に安心しきっていませんか?
・誰かの“段階”や“レベル”を、知らず知らずのうちにジャッジしていませんか?
・あなたが使っている言葉やフレームは、誰かとの“対話”を本当に豊かにしていますか?
・今感じているモヤモヤや違和感に、きちんと向き合おうとしていますか?

発達段階とはラベルではなく、関係性の中で自分を再発見するための補助線です。成長の証は、“上に登ること”よりも、“目の前の人と真摯に向き合える自分になること”。その視点を大切にしたいと感じています。

終わりに

この勉強会を通じて、「何を見落としていたのか」に気づかされました。学びの言葉に酔うのではなく、それが現実の人間関係にどう活きてくるのかを問い直す時間になったと思います。

どれほど完成された理論や段階の話であっても、人の心の奥底にある感情には届かないこともあります。だからこそ、「違和感」こそが真の学びの入り口になるのかもしれません。

この記事が、あなた自身の内面を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。そして、その内省が次の「対話」や「つながり」を変えていく力になることを願っています。