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「いじめはダメ」の教育が育てる【仮面】対話なき空気に潜む違和感

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「いじめはダメ」という教育に、あなたはどれだけ納得していますか?

最近、学校で行われた“いじめ対策授業”に関する話を聞く中で、私は大きな違和感を覚えました。形式的なスローガンやマニュアルに頼った教育は、本当に子どもたちの心に届いているのでしょうか。

子どもたちに伝えたい本当のメッセージとは? その目的や効果は誰のためのものなのでしょうか?

本記事では、私自身の視点から「いじめ教育」の構造と限界を見つめ、そこに潜む課題や見えにくい側面にまで丁寧に言葉を重ねながら、考察してみたいと思います。

1. 教育としての「いじめ対策」に抱いた違和感

いじめ対策の授業が、小学1年生から6年生まで一斉に行われている現場を見て、率直に「何を目的にしているのか」が見えにくいと感じました。
・いじめを「学問」として教えることにどんな意味があるのか?
・教師自身が“いじめ”の本質を理解しているのか?
・形だけのスリーステップ教育で、子どもたちの心には何が残るのか?

「いじめは良くない」「相手を傷つけない」といった教えは表面的には正しいのですが、それが単なる“正解”として記憶されるだけでは意味がないように感じています。

本当に必要なのは、「自分の感情に気づき、他者の感じ方に寄り添う力」を育むことなのではないでしょうか。表面的な「いじめはダメ」という正論が繰り返されることで、かえって子どもたちの“本音”が抑圧され、無自覚な仮面(ペルソナ)を育てることになってしまわないかという懸念が強まりました。

2. 曖昧ないじめの定義がもたらすリスク

「いじめ」は、いつ成立するのでしょうか?
・相手が「いじめられた」と感じたとき?
・それとも「嫌だ」と思った段階?

この定義の曖昧さがあるからこそ、子どもたちは安全を確保するために「綺麗な言葉」だけで会話をするようになります。しかしその結果、本音を言えない空気が生まれ、内面の葛藤は深まる一方です。

これはまさに、大人の社会にも当てはまります。
・上司が悪気なく放った一言がパワハラになる
・家族間の“愛あるつもり”の言動が、相手には虐待として受け止められる

「意図」がなくても、「受け手の感覚」で“いじめ”は成立してしまう。このギャップに向き合わない限り、表面だけをなぞる教育では根本的な解決にはならないのではと考えました。

さらに問題なのは、いじめている側に“その自覚がない”ケースが非常に多いという点です。つまり、いじめの問題は「加害者対被害者」という単純な構図ではなく、互いの気づき不足や理解不足の積み重ねの中で生まれている可能性があるのです。

3. 本質は「いじめ」ではなく、ミスコミュニケーション

いじめという言葉で全てをくくってしまうと、見えなくなるものがあります。
実際は、
・タイプの違い
・感受性の違い
・非言語的な表現のズレ
・背景にある家庭環境や社会的要因

そうした“微細なズレ”の積み重ねが、「いじめられている」と感じるきっかけになっているのではないでしょうか。

ここで本当に必要なのは、

相手との違いに“気づく力(アウェアネス)”を育てることです。自分の感情を理解し、言葉にできるようサポートすることが、結果としていじめの未然防止につながるのだと思います。

また、子どもたちに「違いを否定しない」「異なる価値観と共存する」経験を積ませることが、いじめのない環境をつくる土台になるのではないでしょうか。ミスコミュニケーションの中にこそ、学びの芽があるのです。

4. 教える側の“問い直し”が必要では?

この取り組みを行っている目的は、
・「なぜ、いじめ対策教育を行うのか?」
・「何を学ばせたいのか?」
・「本当に“データ”では見えない子どもたちの変化に気づいているか?」
子供達に関わる身としてどう捉えておくかは、改めてみるのがいいのではと自分自身感じています。

子どもたちは、発言している子だけではありません。沈黙している子たちにこそ、心の内側でどんな感情が動いているのかに目を向けてほしいと思います。

さらに、教育現場で起きる「大人から子どもへのいじめ的構造」にも敏感である必要があります。教師が正論で子どもを抑え込んだり、感情を言語化する前に“正しい行動”を求めすぎることは、結果的に新たな圧力を生む可能性があるのではと感じています。

5. 自分に届けたい問い

・わたしは「いじめ」と聞いて、どんな場面を思い浮かべますか?
・わたしが「いじめているつもりがなかった」経験はありませんか?
・お子さんや周囲の人が「傷ついていた」ことに後から気づいたことは?
・「気づき」を育むために、どんな対話を日常に取り入れていますか?

「いじめ」という言葉の奥にあるものを、対話で掘り下げていく。社会や学校が作る“正しさの構造”に流されず、個人の感情に丁寧に向き合う姿勢を持つこと。それこそが、私たちが今できる第一歩なのかもしれません。

終わりに:気づき合う力が未来を変える

いじめは「教え込む」ものではなく、「気づき合う」ものだと思います。
完璧な対策はなくても、自分自身や相手の感情に丁寧に耳を傾けることで、見えてくる世界はあります。
私自身、今回の気づきを通して「教育とは何か」「本当に伝えるべきことは何か」を深く考える時間になりました。
あなたにとっても、小さなきっかけや視点になれたら嬉しいです。
これからも、感情と対話のレンズで「見えない関係性」に光を当てるような記事を発信していきます。